長編小説「15少年物語」（5）
キンヨウル村の子どもたちが漂流しはじめて、半月がたった。
激しい風雨と荒波に鍛えられて、しだいに船酔いにも慣れ、揺れる船室で眠ることもできた。さしみや生卵が大きらいだった子も、それが食べられるようになった。茂英と明玉、ヤムジョンの3人は炊事を受けもち、あきだるに雨水をみたした。
しかし、船は方向を見失い、どこまで流されたか知りようがなかった。海原と荒波が、果てしなくつづくばかりだ。黒い雲が頭上に低くおいかぶさり、波は思いのままに船をもてあそんだ。
しかし、さすがの嵐も、ある日の夜明けごろから勢いがおとろえはじめた。雲のきれまから青昧がかった空が顔をのぞかせ、星が1つ2つかすかな光を放った。
水をくみだしていた万洙や茂漢、徳善らが、船べりに並んで、まだ暗い夜明けの空を見あげた。
「くたびれたろう。おりて行って休めよ」
昌植、俊浩と一緒に交替しに来た成哲が言った。
「どうしてこんなに早く出て来たんだ。今夜は水が少なくて楽だったよ」
茂漢が答えた。
「楽なわけがあるもんか。さあ、早く休めよ」
成哲が茂漢の洗面器をひったくり、ほかの2人も交替した。
「じゃ、ひと休みしよう」
徳善と茂漢は船室へ引きあげ、万洙はほおづえをついて、夜明けの空を見あげた。
「行かないのか。少しは寝なくちゃ」
俊浩が言った。
「きょうはどうしてだか、寝る気がしないんだ。北極星が見えるはずなんだが…」
「雨がやんで星まで出るなんて、まるで夢みたいだなあ」
俊浩の顔に微笑が浮かんだ。
「風も少しないだようじゃないか」
昌植が大またで、万洙に近寄りながら言った。
「でもまだ安心はできないよ。陸に近いのは確かだけど。この鳥を見てみろよ」
万洙がミユビシギをさしだした。
「やあこれ、どこでつかまえたんだ」
俊浩が喜んで、小鳥を手に取った。
「さっき船に何羽か飛んで来たんだ」
「へえ。でもよくつかまえたなあ」
俊浩は注意深く鳥を見た。うす暗いのでよくは見えないが、背中が灰色で腹は白い、かなり大きな小鳥だった。長いくちばしに比べて尾は短かった。
「これ片輪じゃないのか」
「どうしてだい」
「指が前に3本あるだけで、うしろにはないんだ」
「そんな小鳥もあるのさ。ミフウズラだってそうだ」
「よし、もう1羽つかまえよう。船にたくさん止まってるんだ」
万洙は足音をしのばせて鳥に近づき、なんなく前のと同じ鳥をつかまえて、俊浩に渡した。
「こいつの足もそうだよ。おもしろい鳥だな」
俊浩は2羽の小鳥を手のひらに乗せたが、飛ぼうとしなかった。手を振ると、はじめてデッキに飛びおりた。
「小鳥が好きなくせに、どうして放してやったんだ。お前にやろうと思つてつかまえたのに」
「かわいそうじゃないか。この鳥は飼いならされておとなしいんじゃない。嵐のためさんざん苦労したあげく、船を見つけて飛びこんで来たのさ。もうどこへも行かないつもりだろう」
「なるほどね」
俊浩は、デッキにちょこんと止まっている小鳥を見つめていたが、腰をあげながらつぶやいた。
「お前らは船にあえて助かったと、喜んでるだろうな。きょうにでも汽船か島に出あえば、お互いに助かるんだけどなあ」
小鳥と話しあうようなその言葉に、誰もが同じ思いをしていた。
しばらく沈黙が流れた。
「小鳥が飛んで来るのを見ると、近くに島か陸地があるらしい。きょうあたり、いいことがあるかもしれないぞ」
万洙が沈黙を破った。
「こんなに遠く流されたんだから、島か陸地に出あっても手放しで喜べないよ。何日も何日もろをこいで帰るなんて、とてものことじゃないぜ」
昌植がため息まじりに言った。
「だけどいつまでも海で暮らすわけにはいかないだろう。風さえやめば、たとえ10ヵ月かかっても村に帰らなくちゃ」
万洙は力なく言って空に目をやった。
「あっ、北極星だっ」
万洙が目を輝かせて叫んだ。
「どれが、北極星だ」
「ほら、あそこに見える星、あれが北極星だ。海ではあの星を見て、方向を知るんだよ」
万洙は俊浩に、指で北極星を示した。
「どうしてそれが、北極星だってわかるんだい」
「筒単だよ。あそこに北斗七星があるだろう。ほら、あの7つの星」
「北斗七星ならおれも知ってる」
「北斗七星を探せば、北極星はすぐ見つかるんだ。北斗七星の一番下の2つの星を結ぶ線をずっとのばすと、その5倍ぐらいの距離のところに、明るい星が見えるだろう。それが北極星なんだ。あの星に向かって立ってみろよ。そう、その方角が北なのさ」
「そうか。だからこの船はいま、東北方に流れてるわけだな」
「そうだよ」
万洙は目で笑った。
「じゃ、いまおれたちが、村からどのくらい離れているか、はかる方法もあるんじゃないのか」
「さあね。船乗りなら、わかるかもしれないけど…」
子どもたちは黙って北極星をながめた。
「こんなとき、大きな汽船が汽笛を鳴らしながら、おれたちの前に止まってくれたらなあ」
俊浩は、黒ぐろとした海のかなたを見やって、つぶやいた。
「もういい天気になりそうだから、汽船が見えるかもしれないね」
昌植が相づちをうった。
いまにも汽船があらわれそうな気がして、みな並んで海を見渡した。
「こんなとき、月が出るといいんだがなあ」
万洙が空を見あげて言った。
「もう寝るのに、月なんか出ても出なくっても、同じじゃないか」
「星が見えるから、寝たくないんだ。みんなを起こして、星を見物させようか」
「よせよ。くたくたになって寝入ってるのに、わざわざ起こすことはないよ」
成哲のもっともな言葉に、万洙はうなずき、黙って星空に見とれた。
「村では、おれたちのことで大騒ぎしてるだろうな」
俊浩がしんみりと言った。
「きっと、みんな死んだと思ってるだろうよ」
「ずいぶん、泣いたり騒いだりしてるだろうな」
「おれたちがひょっこり帰ったら、どんなに喜ぶことだろう」
「母さんたちはいまも、船着き場に立って、海を見つめているかもしれないよ」
子どもたちの思いは、故郷の空に飛んでいた。
「そんな話はもうよそうよ。涙が出てしょうがないや」
こう言う成哲の目には、露が光っていた。かれはそれをぬぐおうともしなかつた。
成哲はこの半月のあいだ、村や家のことをおくびにも出さなかつた。しかしそれを忘れたことは片ときもなかった。作業の交替をして船室の壁にもたれると(船室がせまいので、いつも壁にもたれて眠った)、村や母の面影がまぶたに浮かんでくるのだった。いまも母が村の暗い船着き場で、自分の名を呼んでいるような気がしてならなかった。
成哲は母と2人で暮らしていた。半農半漁で暮らしを立てていた父は、コマネズミのように働いた。貧乏暮らしのなかにも、1人息子の成哲には読み書きを教えようと、学校にやってくれた。ところが成哲が4年生になった年の春、父は急病にかかり、わずか数日後に世を去った。
それ以来、母は女の細腕で生計をやりくりし、学費も工面しなければならなかった。昼は船着き場で働き、夜は賃仕事の洗濯や縫物をするなど、苦労のしどおしだった。成哲は母が休むのを、目にしたことがなかった。夜遅くまで勉強しても、母より先に寝床についた。夜中に目をさましても、いつも母はうす明りの下で、縫物やきぬたをつづけていた。
「母ちゃん、もう寝ようよ」
成哲が起き直って、目をこすりながら言っても、母は横になろうとしなかった。
「母さんのことは心配しないでお眠り。これを仕上げないと、お前の月謝や本代が払えないのよ」
こうしたなかで、成哲は6年生になったのである。
（母さんはいまも、おれのこと思って泣いてるだろうな）
ふと人の気配がして、茂漢が姿を見せた。
「どうして寝ないで、出て来たんだ」
「どうにも寝つかれないんだ」
茂漢はふうっとため息をついた。
「また、お父さんのことを心配してるんだな」
「うん。おれ本当に馬鹿なことをしたよ。父さんはきっと巡査につかまって、死ぬほどなぐられているだろう」
「お父さんになんの罪があるって言うんだ」
「罪がないって？ 父さんは船主の目を盗んで、船を貸してくれたじゃないか。船主がどんなにけちでむごい人間か、お前だって知ってるはずだ。去年金剛丸が暗礁に乗りあげたときも、父さんは船を救おうと一所けんめいになったけど、ろが折れちゃったんだ。父さんのおかげで船が助かったのに、船主は礼を言うどころか、ろの代金を絵料から差し引いたんだ。船に比ベたら、ろなんかなんでもないのにさ。それもいっぺんに差し引くと、父さんが船からおりてしまうと思ったんで、3ヵ月に分けて弁償させたんだよ」
「船主がどんなに悪どいやつかは、おれの方がよく知ってるつもりだよ」
万洙がみなを見まわして言った。
「うちではな、あいつから借りたお金のかたに家をとられ、乞食みたいになって、間借り暮らしをしてるんだ。その借金と言うのもさ、おじいさんが病気にかかったとき、30円借りたんだけど、5年のあいだに、利子が雪だるまみたいにふくれあがったんだ。それで家も道具もごっそりとられたんだ。考えれば考えるほど、くやしくてたまらないよ」
「ほんとうだ。金剛丸はちゃんと海に浮かんでいるのに、向こうでは船が難破し、おれたちはみな死んでしまったと思ってるだろうよ。だから船主のやつが黙ってるはずがない。父さんに船代を弁償させようと、やっきになってることだろう。財産といったら、あばらやしかないんだから、弁償できっこないよ。父さんはブタバコにぶちこまれるほかないんだ」
茂漢はそでで涙をぬぐった。
沈黙が流れ、波音だけが聞こえていた。
「ここでいくらくよくよしたって、はじまらない。あんまり心配するなよ」
成哲のいたわるような口調に、茂漢はうるんだ目をあげた。
「そりゃそうさ。でも、心配しないわけにいかないじゃないか。おれ1人ならまだしも、大勢の子をつれて来て、こんな目にあわせてるんだからな。胸がちぎれそうだよ」
「それはお前のせいじゃない。嵐にあつたからさ。過ぎたことをいくら言つてみたってしようがないよ。気を大きく持って、波とたたかおうや」
「この恐ろしい波に勝てるだろうか」
「いままでもちこたえたんだから、これからも力をあわせて、がんばろうよ」
「わかった。お前の話を聞いて、いくらか気が楽になったよ」
茂漢の目に生気がよみがえった。
やがて東の空が白みはじめた。闇につつまれていた地球が、背のびをしているように思われた。雨が降りしきっていたときは、太腸も月も星も、二度と姿を見せないのではないかと、心細い思いをしたが、雨雲が消えて星がまたたき、東の空がほんのり明るんだいま、 宇宙の営みは少しも変わっていないことを、いまさらのように思い知るのだった。やがて朝焼けが映え、太陽が金色の光を放ちながら、さしのぼるだろう。少年たちは、死のどん底から光明の世界に戻ったような気分にひたっていた。
「まだ時間があるからすこし休めよ。日が出るとき、起こしてやるからな」
成哲は万洙と茂漢を押すようにして、船室に送りこんだ。そしてあかつきの空に見入りながら、太陽がのぼりはじめたら、みんなを起こして一緒に日の出を見物しようと思った。 久しぶりに、ばら色の朝焼けを浴びながら、まばゆく輝く真紅の太陽を見たら、みなどんなに喜ぶことだろう。…
成哲はその瞬間を待ちわびた。
ところが急に霧がかかりはじめ、それはみるみる空をおおいつくして、一寸先も見えなくなった。まるでいたずら小僧に、目かくしされたようだった。
アル島の近くでしけにあったときは、こんなに長いあいだ嵐がつづき、こんなに遠くまで押し流されようとは、思ってもみなかった。
一時は、「どうせこうなったからには、海のはてまで行ってみるさ」などとも言ったが、何日も荒波とたたかっているうちに、そんな言葉は聞かれなくなった。
東海のはてまで来たのではないかと、不安でならなかった。いままた霧に視界をさえぎられてみると、今度は手足をがんじがらめにされたような気がした。
風がまだやまず、波もいっこうに衰えをみせないので、暗礁にぶつかったり、岩に衝突する恐れがあった。そうなれば船はこっぱみじんになり、みんな死ぬほかない。…
成哲は身ぶるいした。
みなを起こして日の出を迎えようという希望は、船ベりにうち寄せる水しぶきのように消え去った。
万洙がまた出て来た。
「どうしてこんなに眠れないんだろう」
かれはつぶやくように言うなり、はっとして立ちすくんだ。
「やあ、大変だ。いつこんなに霧がかかったんだ」
「ついさっきからなんだ」
「陸地に近かったら暗礁があるはずだ」
万洙はともへ行って、そのあいだ放っておいたかじを取った。
「どうも前ぶれがよくないぞ」
かれは視野のきかない濃霧の中で、遠くを見はるかすように目をこらした。なにも見えるはずがなかった。
昼ごろになって霧がうすれ、空はからりと晴れた。だが青黒かった海がいまはどす黒く変わり、波はもっと大きくなった。万洙は湖から大河をへて、海に押しだされたような不安に襲われた。
（ひょっとすると、おじいさんがよく言っていた、亡霊の海じゃないのか）
こう思ったが、口には出さなかった。
（芸術）
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